由緒・鎮座の歴史

御祭神 建葉槌命(たけはつちのみこと)

 建葉槌命の御神名は、『日本書紀』の巻第二(神代下)の一書に

「服わぬ者は、ただ星神香香背男(ほしのかみかかせお)のみ。故れまた倭文神建葉槌命を遣わせば、則ち服いぬ。」

と記されています。このあたりを要約すると

「武甕槌神(鹿島の神)と経津主神(香取の神)が葦原中國を平定する際、星神の香香背男だけが服従しなかったが、倭文神の建葉槌命を派遣したところ、すぐに服従した。そして二神は天に登り、ついに成果を天照大神に報告することができた。」

となります。

 また『古語拾遺』には、

「天羽槌雄神(倭文の遠祖なり)をして文布を織らしめ」

と記され、御名は「天羽槌雄神」となっていますが同一の神で、天照大神が天の岩戸に隠れた際に、祭祀の道具(お供え物)である織物を作った神として登場します。尚、倭文(しつ)は麻や栲などの繊維で織った布で、日本古来のものであったので「倭」の文字を用い、シツを織る職業氏族(倭文氏)をも意味しシトリとも言います。(西宮一民校注)

鎮座の歴史 倭文神健葉槌命縁記より

石井神社に伝わる『倭文神健葉槌命縁記』によると、

「石井大明神は尋常の国社ではなく、鹿島香取の二神の幕下の勇将健葉槌命の神祠である。神代よりの鎮座にして笠間藩の鎮め神である。不幸にも神名帳(延喜式)に載らずといえども、神徳三千余座の下に立たず、位は八百萬神の上階である。」

少しおおげさに書かれているかもしれませんが、相当な社であったことが推測されます

続きを少し中略しながら読んでいきます

「風土記に記述の魔王石は、国誌の雷断石なり、健葉槌命を安置する霊社は大三箇石明神、依り代は石奈坂静大明神なり。」

それぞれ大甕神社(日立市)、静神社(那珂郡瓜連)です

「かの石を両脚にて蹴る、久慈の大河を超え石上邑石明神の地の鎮めとなる。」

飛んだ石はまず、石神社(東海村石神外宿)に落ちます

「また石はるかに遠く村落を過ぎ甘瓜の弦にかかる。この村(那珂郡瓜連)は祟りを恐れ、永年瓜畑は作らない。」

静神社のある瓜連の伝承が書かれています

「また那珂の大河を超え二つ目は石塚圷村手粉裂明神に至る。」

2つ目の石は、手子后神社(城里町)に落ちました

「三つ目は数丈の井戸の底に落ちる。故に石井と呼ぶ。」

3つ目の石は笠間(旧石井村)に落ちました。また相当大きな井戸であったとの記録もあります。

「残った甕星の霊は一個の小石となり山本郷の星山に隠れる。」

小石は星宮神社(笠間市中市原)に隠れたようです

「石井神社は甕星神の霊魂の鎮めである。」

甕星の鎮魂のために神社がつくられたようです

この後の記述は少し現実的すぎることが書いてあります。概略を記します。

「古い伝えの諸説には曲言や寓話などもあるので、推量すると、八岐大蛇の伝承などは、中国地方の八党の賊を退治した話だろう」

コメントしづらいですが、言わんとすることはわかります

「この話は神勅により甕星討伐の命を受けたが、鹿島・香取の軍勢は動きがとれなかった。そこで萬夫不当の驍勇(一騎当千の勇将)健葉槌命が石上(大甕)で首をとり、手下の三将を三ヶ所で斬った。この四か所に功績を刻み神社を作った。」

これからすると、元々石井の地にいた甕星神の勢力を井戸のところで討伐し、鎮座地(旧古町村)の場所に石井神社を作り、健葉槌命を祀ったようです。

尚この縁記は、延享2年(1745)茨城郡大戸村夷鍼社の二宮三河守茂直によるもので、その後石井神社に奉納されたようです。

ご覧になりたい方は、宮司までお問合せ下さい。

縁記に出てくる 大甕神社(左上)・静神社(右上)・石神社(下)

少し余談です

平成28年に公開された映画『君の名は』はご覧になりましたでしょうか?

『君の名は。Another Side』(角川スニーカー文庫)によると、映画に登場する「宮水神社」の御祭神は「倭文神建葉槌命」とされています。

どのような経緯で作者が選定したのかわかりませんが、当社の御祭神を取り上げていただきました。

そのほかにも

「隕石が落ちる」 当社の鎮座は、大石(隕石)が石井に落ちた場所に神様を祀ったという由緒です。

「昔に大火事で神社の歴史が全て焼失」 当社も同様に不本意ながら大火事ですべての記録を焼失しております。

なぜか似たような点が多くあります。


歴史 常陸風土記にうたわれる笠間

石井神社が鎮座する笠間については、奈良時代の初期、和銅6年(713)に編纂された常陸風土記(新治)には、

「郡より以東五十里に、笠間村あり。」

と記述があります。

また、神社北側一帯では、竪穴式住居跡が見つかっており、縄文土器や土師器、須恵器なども出土しています。古墳時代の後期には集落があったことは間違ありません。風土記にうたわれる「笠間」は、石井周辺のことと推定されます。(笠間の文化財読本 笠間市文化財愛護協会刊 参照)

この辺りの笠間盆地の中で、古くから人々が住んでいた里として、石井・市毛・大淵・福田・飯田・徳蔵・箱田・来栖・本戸・吉原・稲田・福原の12ヶ所があります。この土地との形が「すげ笠」に似ており、笠の骨組を山としてその合間に12の集落があるように見えることから「笠間」と名付けられたことが『笠間城記』に記述されています。

石井の周辺には、石井神社の他に大井神社・箱田神社・来栖神社がありその四つの神社を「四所神社」と呼んでいたことも当社の記録にあります。

石井神社の創建については不詳ですが、平安時代初期の大同二年(807)に社殿を再建しており、当社では「大同2年再建(創始不詳)」としておりますが、相当古い神社であることは間違いないでしょう。

その後、社殿は4度火災に見舞われ焼失し、伝承された文献などは残念ながら残っていません。尚、現在の本殿は、江戸時代の天明の大火災で焼失した後に、天明8年(1788)に再建されたようです。そのことは拝殿に掲げられた大絵馬に「世話人 羽石・櫻井 天明8年」との銘が物語っています。

何度も火災に見舞われたことは残念なことでありますが、江戸の繁栄の陰で多くの火災が発生したように、石井の地が繁栄していたことがうかがわれます。


境内について

大鳥居

平成29年より進められた境内整備の一環として、まず同年11月に鳥居の建替えが行われました。それまでの欅造りの大鳥居は明治34年(1901)建立の両部鳥居で、歴年経過や東日本大震災の被災で倒壊のおそれがあり、支え木がされた状態でした。

11月の例大祭に合わせ関係各位参列の下、記念式典や祭典が行われました。また同時に中央参道の敷石の張替えや東側の板垣の作り替えも行いました。

尚、今後は国道55号線沿いの境内空き地部分の整備が進めらます。


境内社

本殿東側には、二つの境内社があります。右側が青麻神社(中風・病気平癒の神)、左側が秋葉神社(火防の神)と琴平神社(海の神)が相殿となっており、社殿内の右側には・樺山神社(茨城国造の祖)の神輿が社殿として祀られています。また本殿には鹿島神社・香取神社(武神)・稲荷神社(産業の神)が合祀されています。

これらは長い歴史の中で、石井の人々が様々な問題から町を守るため、神様のご神威をいただいてきたことがうかがえます。


御手洗

また神社より南方にしばらく進むと「御手洗」(石井南交差点よりさらに南下し、東側農道を進んだ右手)があり、鎮座の由来となった巨大な石が落ちた場所とされています。

古くは馬場先と呼ばれ、ここから馬をつないで参拝した参道の入り口と伝えらえます。

落ちた巨石については伝えられておりませんが、古くはこの場所からふんだんな清水が湧き出ており、氏子の生活に供していました。(場所は下記地図のあたりです)


神社の歴史年表(更新中)

不詳  石井神社 創始

大同2年(807) 石井神社本殿を再建

寛保年間(1740)頃 槻(欅)の大鳥居を造営 ・・・仁平正義記録

延享2年(1745) 『倭文神健葉槌命縁記』石井神社本縁を記録

           ニ宮(三河守)茂直(夷針社)による

天明8年(1788) 石井の大火災にて社殿等を焼失

寛政元年(1789) 鳥居が再建

寛政3年(1791) 本殿・拝殿が再建

明治6年(1873) 村社と定められる

明治34年(1901) 欅の大鳥居を建立

昭和 ( )拝殿を建替え

昭和53年(1978) 石井神社社務所を建設

昭和62年(1987) 天王塚社を建立

平成29年(2017) 鉄製の大鳥居竣工

平成30年(2018) 境内整備記念大祭(境内の各種整備完了予定)

神社取調書 参考資料として

おそらく明治時代に書かれた書類が出てきましたので、書き留めておきます。

( )は注です。【※ 】は宮司が付けた補則です。できるだけ解読してますが、誤字があるかもしれません。読みやすいように空白や改行を入れています。

神社取調書

所在地名

茨城縣常陸國西茨城郡笠間町大字石井字宮廻

 村社 石井神社

祭神

 建葉槌命

事由

創立ノ年暦ハ詳ナラズ、大同二年再建ノ由ナリ   【※大同2年は807年】

勧請ノ来由ハ往古建葉槌命 鹿嶌香取二神ノ命ヲ受テ 天ノ甕星亦名香々背男ヲ討給シニ 大甕山ノ上ニ(久慈郡ナリ)大石ニ変ス

圍四丈高サ五丈 日夜ニ長ス 再ヒ建葉槌命ニ命シテ其石ヲ破裂セシム則チ三段トナル

各一所ニ散在ス 其残余ノ石亦三段トナル 其一段笠間ノ國中ノ井ノ底ニ落ツ

故ニ名付テ石井ト云フ

甕星ノ怨憤ヲ懼レテ鎮魂ノ爲メ建葉槌命ヲ祭祀セリト云フ

其石ノ沈ミシ井ハ 即チ今ノ御手洗ナリ(本社ヲ去ル三百五捨九間余南ノ方ニアリ)

一段ハ山本ノ郷ニアリ 今名付テ星山ト唱ス  【※旧市原村、現笠間市中市原の星宮神社】

又一段ハ圷村手粉裂明神ト祭ルト云(右ハ延享二年二宮茂直カ記セル石井神社本縁ト云フ書ニアル故ノ概略ナリ)

  【※旧東茨城郡圷村、現在東茨城郡城里町の東部にある手子后神社】

當所ノ鎮守ニシテ土人其神徳ヲ敬仰セサルハナシ

笠間四所ノ宮ト云伝ヘタリ

大井神社(大淵ノ鎮座) 箱田神社(箱田ノ鎮座) 来栖神社(来栖ノ鎮座)

以上ノ神社ヲ四所ト称セリ

然レトモ火災の爲メ旧記ヲ失シ 縁由ヲ詳ニスル事能ハス

明治六年四月村社ニ定メラレル

建物

 本社 間口六尺二寸 奥行五尺四寸 コバ葺

 上屋 間口三間 奥行四間

  寛政三 辛亥年造営ス

 拝殿 間口三間 奥行二間三尺 瓦葺

  寛政三 辛亥年造営ス

 鳥居 根開一丈四尺高一丈八尺 壱基

  寛保年中ノ建設ニテ槻ヲ以テ造ル 籰措ナリ

 御手洗場 間口五尺 杉皮葺

境内地

 境内百七十二坪 平地ニシテ人家ニ接続セリ

永続基本財産

 建物等維持上ニ関シ基本トシテ金五十圓ヲ 社掌仁平正義預リ置キ

其利子金七圓五十銭ト 境外一所有地ヨリ生スル地代金五圓ヲ合セテ 氏子総代之ヲ管理シ修繕等ノ費途ニ充ツル事セリ

宝物古文書

 巻物 一巻

 是ハ石井神社本縁ナリ 延享二 孟春同國同郡大戸村夷鍼社 大常令ニ宮参河守日奉茂直ノ書スル所相伝テ今ニ至ル    【※延享2年は1745年】

 境外一所有地

 宅地壱及三畝二捨一歩

物質ハ表紙浅黄調ニシテ表紙裏ハ金入間ニ合 巻物紙 生間ニ合軸末壇細絹打一間九寸五分長サ弐丈一尺壱寸裂作上

名不詳

※最後の「物資ハ・・・」あたりから解読が難しくてとりあえず書いてますが、意味が通ってないかもしれません。もっと調べて修正していきます。