御祭神 建葉槌命(たけはつちのみこと)

 建葉槌命の御神名は、『日本書紀』の巻第二(神代下)の一書に

「服わぬ者は、ただ星神香香背男(ほしのかみかかせお)のみ。故れまた倭文神建葉槌命を遣わせば、則ち服いぬ。」

と記されています。このあたりを要約すると

「武甕槌神(鹿島の神)と経津主神(香取の神)が葦原中國を平定する際、星神の香香背男だけが服従しなかったが、倭文神の建葉槌命を派遣したところ、すぐに服従した。そして二神は天に登り、ついに成果を天照大神に報告することができた。」

となります。

 また『古語拾遺』には、

「天羽槌雄神(倭文の遠祖なり)をして文布を織らしめ」

と記され、御名は「天羽槌雄神」となっていますが同一の神で、天照大神が天の岩戸に隠れた際に、祭祀の道具(お供え物)である織物を作った神として登場します。尚、倭文(しつ)は麻や楮などの繊維で織った布で、日本古来のものであったので「倭」の文字を用い、シツを織る職業氏族(倭文氏)をも意味しシトリとも言います。(西宮一民校注)

 健(建)  葉       槌    命

 ↓建が天   ↓(ヨミ同じ) ↓(まま) ↓(ミコトが男神に)

 天     羽       槌    雄神

鎮座の歴史 倭文神健葉槌命縁記より

石井神社に伝わる『倭文神健葉槌命縁記』によると、

「石井大明神は尋常の国社ではなく、鹿島香取の二神の幕下の勇将健葉槌命の神祠である。神代よりの鎮座にして笠間藩の鎮め神である。不幸にも神名帳(延喜式)に載らずといえども、神徳三千余座の下に立たず、位は八百萬神の上階である。」

少しおおげさに書かれているかもしれませんが、相当な社であったことが推測されます

続きを少し中略しながら読んでいきます

「風土記に記述の魔王石は、国誌の雷断石なり、健葉槌命を安置する霊社は大三箇石明神、依り代は石奈坂静大明神なり。」

それぞれ大甕神社(日立市)、静神社(那珂郡瓜連)です

「かの石を両脚にて蹴る、久慈の大河を超え石上邑石明神の地の鎮めとなる。」

飛んだ石はまず、石神社(東海村石神外宿)に落ちます

「また石はるかに遠く村落を過ぎ甘瓜の弦にかかる。この村(那珂郡瓜連)は祟りを恐れ、永年瓜畑は作らない。」

静神社のある瓜連の伝承が書かれています。キュウリとかこの辺では作らないそうな…

「また那珂の大河を超え二つ目は石塚圷村手粉裂明神に至る。」

2つ目の石は、手子后神社(城里町)に落ちました

「三つ目は数丈の井戸の底に落ちる。故に石井と呼ぶ。」

3つ目の石は笠間(旧石井村)に落ちました。また相当大きな井戸であったとの記録もあります。

「残った甕星の霊は一個の小石となり山本郷の星山に隠れる。」

小石は星宮神社(笠間市中市原)に隠れたようです

「石井神社は甕星神の霊魂の鎮めである。」

甕星の鎮魂のために神社がつくられたようです

この後の記述は少し現実的すぎることが書いてあります。概略を記します。

「古い伝えの諸説には曲言や寓話などもあるので、推量すると、八岐大蛇の伝承などは、中国地方の八党の賊を退治した話だろう」

コメントしづらいですがw、言わんとすることはわかります

「この話は神勅により甕星討伐の命を受けたが、鹿島・香取の軍勢は動きがとれなかった。そこで萬夫不当の驍勇(一騎当千の勇将)健葉槌命が石上(大甕)で首をとり、手下の三将を三ヶ所で斬った。この四か所に功績を刻み神社を作った。」

これからすると、元々石井の地にいた甕星神の勢力を井戸のところで討伐し、鎮座地(旧古町村)の場所に石井神社を作り、健葉槌命を祀ったようです。

尚この縁記は、延享2年(1745)茨城郡大戸村夷鍼社の二宮三河守茂直によるもので、その後石井神社に奉納されたようです。

ご覧になりたい方は、宮司までお問合せ下さい。(写真は写です。別に巻物があります)

星神の伝承

石井神社の御祭神建葉槌命に関わるお話

当社を遠方より参拝される方の多くが興味を持っておられるので、少しずつですが、天甕星(香香背男)討伐の神話をまとめていきたいと思います

天甕星(香香背男)

関東を治めた一族か、東北まで治めた記述もある

また静岡辺りまで勢力があったが、常陸のあたりまで押し込まれたとする記述も

実際に富士宮市に倭文神社(祭神 健羽雷神)が鎮座しているのだが、関連はわからない。

石名坂で討伐される、久慈郡久慈村との記述もあり


静神社 常陸国二の宮 那珂市静2

鹿島香取の神とともに、出雲征伐の後、建葉槌命の一族が治めた場所か

大同元年(806)創始とも言われるが、創始不詳となっている、奈良時代の創始とのこと。

大甕神社 日立市大みか町6-16-1

石名坂と呼ばれる場所、天甕星の討伐地と言われる

宿魂石がある

神社については江戸時代の元禄8年(1695)に宿魂石の上に移転し、現在に至る

鎮座は紀元前660年と神社では伝えられているそうである

石神社(那珂郡東海村石神外宿1)   ↑写真

御祭神 天手力雄命

創始 不詳

星神香々背男を倒し、宿魂石裂け飛びその一つがこの地にとどまる、そして手力雄を祀る。手力雄は建葉槌の誤りなれど、今に改めず。

『倭文神健葉槌命縁記』では、1つ目の石が落ちたところ

御神体が巨石とのこと


手子后神社(村社) 東茨城郡城里町上圷199

『倭文神健葉槌命縁記』では、2つ目の石が落ちた場所と記述される


風隼神社(村社) 東茨城郡城里町石塚1088

御祭神 武甕槌命

大同元年勧請との伝えあり

石名坂の魔王石を天手力雄神が蹴り倒し、3つに折れた石、本は石名坂にとどまり、中は石上村に、末は石塚村に留まる。石色黒く、赤く、白い節あり、その石が今の御神体として祀るという。

『大甕倭文神宮縁起』によると、2つ目の石が落ちた場所と記述がある。


天満神社(村社)日立市河原子町3-15-18

『栗田先生雑著』(栗田寛著)によると河原子村に2つ目の石が落ちている

河原子には神社はここだけなので記載したが、御祭神も違うので無関係だと思う


星宮神社(村社) 笠間市中市原522

御祭神 天之可可背男命

神護景雲(767-770)年間創始

『倭文神健葉槌命縁記』によると、天甕星の霊が小石になって隠れた所


手子后神社(村社) 水戸市田島町173(旧内原町)

明治6年鹿島神社に合祀も、後の明治12年分祀して現在に。

先述『消された星信仰』によると4つ目の石が落ちた場所。出典元不明。


おんねさま(久慈漁港北東の沖)

大甕神社の宿魂石と地中でつながっている神磯。


このように見ていくと、どの説も1つ目は東海村の石神社、3つ目は石井神社なのですが、いろいろと表記が分かれています

ちなみに星のつく神社は、茨城に10社程度、栃木が多くて130社くらいあるようです

これまで調べたことを考えていくと、石井神社の創始は760年から807年の間あたりなのか…。

静神社は不詳だが大同元年説があり、風隼神社も大同元年創建と伝えられる中で、石井神社の創始は大同元年か2年といったところでしょうか。大同2年再建と伝えがあるが、創建としても良いのかもしれない。


巡拝コース

石名坂村(大甕神社)を西へ、石神外宿村(東海村石神社)、静村・瓜連村(静神社)からさらに西に進むと石塚(風隼神社)、その先終点が古町村・石井村(石井神社)

車移動だけで1時間15分程度です。

【ご参考】

元禄国絵図(1702) 国立公文書館アーカイブ

https://www.digital.archives.go.jp/gallery/0000000219

常陸国絵図(江戸時代前期?) 茨城県立図書館デジタルライブラリ※右が北なので注意

https://www.lib.pref.ibaraki.jp/guide/shiryou/digital_lib/valuable_m/001051194866/001051194866.jpg

googleMAPと比較するとおもしろいですよ!!

倭文とは??

倭文という織物の話がでてきていますが、いったいどんな織物なんでしょうか?

倭文を再現しようとしている「倭文機グループ手しごと」という市民団体が静神社のおひざ元瓜連にあります。ここでは楮(こうぞ)から織物を作られています。

この謎の答えは文献の中にあるはずなので調べてみました。

倭文がでてくるのは、日本書紀の一書そして忌部氏の記録『古語拾遺』(大同2年・忌部広成著)です。特に古語拾遺(名前は後から付けられた)は大嘗祭をはじめ神事の織物を司る氏族である忌部(斎部)なので、詳しく出てきます。


『古語拾遺』とは

天皇に仕える氏族で祭祀を司る中臣氏の力が強く、忌部氏もこういう記録漏れてるよっと補完した書物です。忌部氏に少々肩入れが強いですが、古事記、日本書紀とともに大切な記録書です。いくつか写本があり、大同元年、2,3と表記もありますが、大同2年(807年)が正しいという学説です。撰述ー忌部廣成


さあ記述を見ていきましょう!

いきなり飛ばして

高皇産霊神が(中略)生んだ男神の名は

天太玉命(あめのふとたまのみこと)ー斎部宿禰の先祖

太玉命の率いる神の名は

天日鷲命(あめのひわしのみこと)[阿波国(あわ)の忌部の先]

手置帆負命(ておきほおいのみこと)[讃岐国の忌部の先祖

彦狭知命(ひこさしりのみこと)紀伊国の忌部の先祖

櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)出雲国の玉作の先祖

天目一箇命(あめのまひとつのみこと)筑紫・伊勢両国の忌部の先祖

いっぱい神様出てきましたね。この天太玉命天日鷲命!ここポイント

またまた飛ばして記紀と同じく重要な天の岩戸開きのシーン。

太玉神にいろいろな部族の神を率いて和幣(にぎて)を作らせ、(中略) 長白羽神(ながしらはのかみ)伊勢国の麻績(おみ)の祖先で今の世の衣服を白羽と言うのは これが始めである。麻で青和幣(あおにぎて)を作らせ、 天日鷲神に津咋見神(つくいみのかみ)を遣わして穀木を植えさせて白和幣(しろにぎて)を作らす これは木綿である。この二つ(麻と穀)は一夜で茂る。天羽槌雄神(あめのはつちをのかみ)[倭文の遠祖である。文布(しつ)を織らせる。天棚機姫神(あめのたなばたひめのかみ)に神衣を織らせる。いわゆる和衣(にぎたへ)である。

ここに出てきました建葉槌命!の別名天羽槌雄神!倭文の遠祖と紹介されます。前段のいろいろな部族の一つでもあります。

倭文=文布とも出てきます。はい答えです

他のところもまとめておきます。

・麻で青和幣を作らせ ※麻は青い繊維 後の註で「あさ」は植物名、製品名は「を」

・穀木(かずのき)・楮(こうぞ)・栲・梶(かぢ)で白和幣を作るーこれは木綿(ゆふ) ※木綿は白い繊維

・文布

・神衣=和衣(にぎたへ)


またまた飛んで神武東征のところ

天富命は斎部の諸氏にいろいろな神宝・鏡・玉・矛・盾・木綿(ゆふ)・麻(を)などを作らせ、 櫛明玉命の孫は御祈玉(みほきたま)を造る。 その末裔は出雲国にいる。年毎に調物とその玉をたてまつる。天日鷲命の孫が木綿(ゆふ)また麻(を)また織布(あらたへ)を造る。

ここの天日鷲命の孫?これは誰だろう??

天富命は天日鷲命の孫を率いて肥沃な場所を求めて、阿波国に遣わして穀・麻の種をまいた。 その末裔は今はその国にいる。大嘗の年に木綿(ゆふ)・麻布(あらたへ)また種々の物をたてまつる。だから郡の名を麻殖(をゑ)とする所以である。

天富命は更に肥沃な土地を求め阿波の斎部を分けて東の国に行き、麻・穀植え、 良い麻が生育した。だからここを総国(ふさのくに)という。穀木の生えるところである。だから結城郡(ゆふきのこおり)という。[古くは麻を總という。今の上総・下總の二つの国である。]阿波の忌部がいるところを安房郡(あはのこおり)と名付ける。[今の安房国である。]

天富命はその地に太玉命の社を建てた。今は安房社(あはのやしろ)という。 その神戸(かむべ)に斎部氏がいる。

阿波(徳島)から忌部の一部が安房(千葉)へ行って、麻と穀木を植えまくって広めている。なんとなく流れが見えてきた感じですね。

また飛びまくって、忌部のひがみまとめのところの10番目

全ての大幣を造ることは神代の職によるべきである。斎部の官は諸氏を率いて例年のように造って供えた。 ならば神祇官の神部は中臣・斎部・猿女・鏡作・玉作・盾作・神服・倭文・麻績等の氏であるべきでだ。 今は中臣・斎部等の二・三の氏族だけがあり、それ以外の氏は選択されない。 神代の功績ある子孫たちが散って、その葉(すゑ)が絶えようとしている。

また倭文が出てきましたね。ここでは文布ではなく氏族の倭文です。


まとめ

天羽槌雄神は倭文の遠祖である。

倭文は、木綿(楮・穀木で作った)で文布を織る氏族であり、おそらくこの織物を倭文と呼んだのでしょう。

「木綿」(ゆふ)は穀の木(桑科の落葉灌木)の荒皮を蒸し剝ぎ、何度も水にさらした真っ白い繊維のこと。

「麻」(を)は一年生の草本で、皮を剥いだ緑色(あお)の繊維のこと。

鹿島・香取の神が安房(千葉)に入ったように、阿波(徳島)の忌部と仲間の諸氏も安房(千葉)で木綿作りのために移民したようです。倭文の氏族もこの類と推測されます。

結城郡も出てきて、結城紬で有名な絹織物ですから、その職業集団が千葉・茨城に入ってきたのは間違いないでしょうね。


別の話ですが、今では大嘗祭や伊勢神宮にお供えする和妙・荒妙はそれぞれ

和妙ー絹

荒妙ー麻

 となっていて延喜式「伊勢太神宮四月九日神衣祭」にも

右和妙の衣は服部氏、荒妙の衣は麻績(をみ)氏が織って供えよ、と書いてあります。

が、この荒妙の原料が麻とは言ってないんです。どこかで楮が絹に変わったようです。

そして『古語拾遺』の先ほどからの説明でも出てきますが、絹は一切出てきませんので、もともとは、穀木(かじ・楮・こうぞ)と麻が和妙・荒妙の原料なのしょう。

時代が移り変わり今の形になりましたが、昔は原料は別として柔らかい布(和妙)、荒い布(荒妙)という説も有力そうですね。原料を指すのではなく製品を指して名称が付いたのか??


日本書紀(神代下)「倭文神 これをばシトリガミという」

万葉集(巻17、4011)「神の社に照る鏡之都(しつ)に取り添へ」他

新撰姓氏録(大和国神別、天神)「委文宿禰、神魂命の後、大味宿禰より出づ」他

他の文献からもこの点の考察があるのですが、時間があればまた追記していきます。

※カナや註などで表記していないところは、西宮一民『古語拾遺』から引用しています。

  (令和7年1月6日追記分)

少し余談です

平成28年に公開された映画『君の名は』はご覧になりましたでしょうか?

『君の名は。Another Side』(角川スニーカー文庫)によると、映画に登場する「宮水神社」の御祭神は「倭文神建葉槌命」とされています。

どのような経緯で作者が選定したのかわかりませんが、当社の御祭神を取り上げていただきました。

そのほかにも

「隕石が落ちる」 当社の鎮座は、大石(隕石)が石井に落ちた場所に神様を祀ったという由緒です。

なぜか似たような点が多くあります。たまたまですね。


歴史 常陸風土記にうたわれる笠間、他文献の記述

『常陸風土記』

石井神社が鎮座する笠間については、奈良時代の初期、和銅6年(713)に編纂された常陸風土記(新治)には、「郡より以東五十里に、笠間村あり。」と記述があります。

また、神社北側一帯では、竪穴式住居跡が見つかっており、縄文土器や土師器、須恵器なども出土しています。古墳時代の後期には集落があったことは間違ありません。風土記にうたわれる「笠間」は、石井周辺のことと推定されます。(笠間の文化財読本 笠間市文化財愛護協会刊 参照)


『笠間城記』

この辺りの笠間盆地の中で、古くから人々が住んでいた里として、石井・市毛・大淵・福田・飯田・徳蔵・箱田・来栖・本戸・吉原・稲田・福原の12ヶ所があります。この土地との形が「すげ笠」に似ており、笠の骨組を山としてその合間に12の集落があるように見えることから「笠間」と名付けられたことが『笠間城記』に記述されています。

笠間城が作られ、城下に「石井」の村人を移り住まわせたことも記述があります。


『新編常陸國誌』

江戸時代前期に編纂された『新編常陸國誌』巻三郷里には、この地域の名称として「巡廻郷」(めぐり)との記述があり『和名類聚抄』(平安初期編纂)にもある女久利・女具利(めぐり)は茨城郡間黒(まぐろ)村である。読みが近く、間黒、箱田、片庭などの村落が山の廻りにあるから「めぐり」との名の理由である。「間黒の東に笠間城あり」とあることから、笠間城の西にある間黒村が『和名類聚抄』の「めぐり」の場所と推定されます。

現在の笠間市石井の北東部及び笠間市赤坂あたりの字に「間黒」の名称が残っていること石井神社の字は「宮廻」となっていることなど、この周辺のことを指すのではないでしょうか。


石井神社の創建については不詳ですが、平安時代初期の大同二年(807)に社殿を再建しており、当社では「大同2年再建(創始不詳)」としておりますが、相当古い神社であることは間違いないでしょう。

その後、社殿は4度火災に見舞われ焼失し、伝承されたかもしれない文献などは残念ながら残っていません。尚、現在の本殿は、江戸時代の天明の大火災で焼失した後に、天明8年(1788)に再建されたようです。そのことは拝殿に掲げられた大絵馬に「世話人 羽石・櫻井 天明8年」との銘が物語っています。

何度も火災に見舞われたことは残念なことでありますが、江戸の繁栄の陰で多くの火災が発生したように、石井の地が繁栄していたことがうかがわれます。

石井の周辺には、石井神社の他に大井神社・箱田神社・来栖神社がありその四つの神社を「四所神社」と呼んでいたことも当社の記録にあります。


境内について

大鳥居

以前の大鳥居は明治34年(1901)建立のケヤキつくりの両部鳥居で、歴年経過や東日本大震災の被災で倒壊のおそれがあり、支え木がされた状態でした。そこで平成29年より境内整備の一環として建替えが進められ、同年11月に鉄製の大鳥居が完成しました。

また同時に中央参道の敷石の張替えや東西の板垣、手水舎、拝殿畳の作り替えや境内全体の配置整理も行いました。平成30年6月には境内整備の完成を祝う臨時大祭を行い、さまざまな文化芸能の奉納もあり多くの人々でにぎわいました。


境内社

本殿東側には、二つの境内社があります。右側が青麻神社(中風・病気平癒の神)、左側が秋葉神社(火防の神)と琴平神社(海の神)が相殿となっており、社殿内の右側には・樺山神社(茨城国造の祖)の神輿が社殿として祀られています。また本殿には鹿島神社・香取神社(武神)・稲荷神社(産業の神)が合祀されています。

これらは長い歴史の中で、石井の人々が様々な問題から町を守るため、神様のご神威をいただいてきたことがうかがえます。


御手洗(みたらし)

また神社より南方にしばらく進むと「御手洗」(石井南交差点よりさらに南下し、東側農道を進んだ右手)があり、鎮座の由来となった巨大な石が落ちた場所とされています。

古くは馬場先と呼ばれ、ここから馬をつないで参拝した参道の入り口と伝えらえます。

落ちた巨石については伝えられておりませんが、古くはこの場所からふんだんな清水が湧き出ており、氏子の生活に供していました。(場所は下記地図のあたりです)

神社の歴史年表(随時更新中)

不詳  石井神社 創始

大同2年(807) 石井神社本殿を再建

寛保年間(1740)頃 槻(欅)の大鳥居を造営 ・・・仁平正義記録

延享2年(1745) 『倭文神健葉槌命縁記』石井神社本縁を記録

           ニ宮(三河守)茂直(夷針社)による

安永8年(1779) 本殿遷宮(残る棟札より)

天明5年(1785)9月 遷宮 仁平九十〇 藤原正福(残る棟札より)

天明8年(1788) 石井の大火災にて社殿等一切を焼失

寛政元年(1789) 鳥居が再建

寛政3年(1791) 本殿・拝殿が再建

寛政6年(1794)11月 造立石井大明神一宇 仁平将監 藤原正全(残る棟札より)

明治6年(1873) 村社と定められる

明治34年(1901) 欅の大鳥居を建立

昭和19年(1944) 拝殿を建替え

昭和53年(1978) 石井神社社務所を建設

昭和56年(1981)2月 拝殿屋根修復 向拝浜縁新築

昭和62年(1987) 天王塚社を建立

平成29年(2017) 鉄製の大鳥居、参道敷石竣工

平成30年(2018) 玉垣、手水舎等竣工(6月3日、境内整備記念大祭)

神社取調書 参考資料として

おそらく明治時代に書かれた書類が出てきましたので、書き留めておきます。

( )は注です。【※ 】は宮司が付けた補則です。できるだけ解読してますが、誤字があるかもしれません。読みやすいように空白や改行を入れています。

神社取調書

所在地名

茨城縣常陸國西茨城郡笠間町大字石井字宮廻

 村社 石井神社

祭神

 建葉槌命

事由

創立ノ年暦ハ詳ナラズ、大同二年再建ノ由ナリ   【※大同2年は807年】

勧請ノ来由ハ往古建葉槌命 鹿嶌香取二神ノ命ヲ受テ 天ノ甕星亦名香々背男ヲ討給シニ 大甕山ノ上ニ(久慈郡ナリ)大石ニ変ス

圍四丈高サ五丈 日夜ニ長ス 再ヒ建葉槌命ニ命シテ其石ヲ破裂セシム則チ三段トナル

各一所ニ散在ス 其残余ノ石亦三段トナル 其一段笠間ノ國中ノ井ノ底ニ落ツ

故ニ名付テ石井ト云フ

甕星ノ怨憤ヲ懼レテ鎮魂ノ爲メ建葉槌命ヲ祭祀セリト云フ

其石ノ沈ミシ井ハ 即チ今ノ御手洗ナリ(本社ヲ去ル三百五捨九間余南ノ方ニアリ)

一段ハ山本ノ郷ニアリ 今名付テ星山ト唱ス  【※旧市原村、現笠間市中市原の星宮神社】

又一段ハ圷村手粉裂明神ト祭ルト云(右ハ延享二年二宮茂直カ記セル石井神社本縁ト云フ書ニアル故ノ概略ナリ)

  【※旧東茨城郡圷村、現在東茨城郡城里町の東部にある手子后神社】

當所ノ鎮守ニシテ土人其神徳ヲ敬仰セサルハナシ

笠間四所ノ宮ト云伝ヘタリ

大井神社(大淵ノ鎮座) 箱田神社(箱田ノ鎮座) 来栖神社(来栖ノ鎮座)

以上ノ神社ヲ四所ト称セリ

然レトモ火災の爲メ旧記ヲ失シ 縁由ヲ詳ニスル事能ハス

明治六年四月村社ニ定メラレル

建物

 本社 間口六尺二寸 奥行五尺四寸 コバ葺

 上屋 間口三間 奥行四間

  寛政三 辛亥年造営ス

 拝殿 間口三間 奥行二間三尺 瓦葺

  寛政三 辛亥年造営ス

 鳥居 根開一丈四尺高一丈八尺 壱基

  寛保年中ノ建設ニテ槻ヲ以テ造ル 籰措ナリ

 御手洗場 間口五尺 杉皮葺

境内地

 境内百七十二坪 平地ニシテ人家ニ接続セリ

永続基本財産

 建物等維持上ニ関シ基本トシテ金五十圓ヲ 社掌仁平正義預リ置キ

其利子金七圓五十銭ト 境外一所有地ヨリ生スル地代金五圓ヲ合セテ 氏子総代之ヲ管理シ修繕等ノ費途ニ充ツル事セリ

宝物古文書

 巻物 一巻

 是ハ石井神社本縁ナリ 延享二 孟春同國同郡大戸村夷鍼社 大常令ニ宮参河守日奉茂直ノ書スル所相伝テ今ニ至ル    【※延享2年は1745年】

 境外一所有地

 宅地壱及三畝二捨一歩

物質ハ表紙浅黄調ニシテ表紙裏ハ金入間ニ合 巻物紙 生間ニ合軸末壇細絹打一間九寸五分長サ弐丈一尺壱寸裂作上

名不詳

※最後の「物資ハ・・・」あたりから解読が難しくてとりあえず書いてますが、意味が通ってないかもしれません。もっと調べて修正していきます。

天王塚社について

石井神社より西へ200mほど進むと天王塚社と呼ばれる小さな社があります。

当社と結びつきが強く、現在も祭典を石井神社宮司が行い、遷座先の八坂神社から夏の祇園祭には神輿が渡御されます。

参考に下記に歴史を列挙しておきます。


貞観年間頃(859~876)創建の下野国小貫村(現在の栃木県茂木町)牛頭天王社は、建長6年(1254)に天王塚の場所に遷し、古町村(現在の笠間市石井)で祀っていました。

慶安2年(1649)笠間藩の領主であった井上正利が牛頭天王への信仰が強く、現在の八坂神社(笠間市笠間345)に土地を寄進し遷座しました。

八坂神社『牛頭天王縁起書』承応2年(1653)参照


下野国小貫村の天王社では、神の祟りを恐れた村人が川にご神体を菰にくるんで流しました。古町村に流れ着き村人が拾い上げたご神体を村内で祀ったのが天王塚です。天正年間(1573~1591)には市毛村(笠間市笠間町)へ遷した後、三社神社(笠間市笠間)に仮遷座しました。

『笠間城記』正徳元年(1711) 国文学研究資料館所蔵 参照

神道裁許状

江戸時代の寛文5年(1665)諸社禰宜神主法度が発布され、神職の資格(狩衣や烏帽子を着て良いという許可)を京都の吉田家(吉田神社)からいただくことになります。※ない場合は「白丁」(下級の官職用の白い着物)しか着れません。

吉田家の祖は、古代より祭祀を司る卜部氏で、幕府より「神祇管領長上」称号をいただき、全国の神社に神様の位を、神職に資格を与えていました。

最初の画像は、石井神社(石井大明神)の神主、仁平正次が享保5年(1720)に与えられた「神道裁許状」です。また以下に残存するものを載せています。

これ以前のものは、焼失してしまったと聞いていますが、定かではありません。しかしながら長い歴史の間、仁平家が神主を務めていたことがわかります。

江戸時代の笠間藩は、藩主がころころ変わっていましたが、笠間城主として延享4年(1747)に移ってきた日向延岡藩の牧野貞通から牧野家が幕末まで治めていました。

https://www.city.kasama.lg.jp/page/page000169.html

(参考 笠間市ホームページ ※延亭→延享 誤植あり)

近隣の八坂神社、(大渕)天神社、石井神社の3社の神主は仁平(二平)家で、この3家を牧野家が神主として連れてきたと言う話を聞きます。

しかし神主として裁許状をいただいているのが、その30年近く前になりますので年代がズレています。但し、この裁許状には神社名がありませんので、事実であれば移って以降は神社名が入ったと考えることができます。この点は確証がありません。

神道裁許状を公開しているところはあまりないので、個人情報ですがせっかくなので公開しています。※見たい方は社務所に展示してありますので、お問合せ下さい。

石井神社 歴代神主

享保5年(1720)頃 仁平正次(裁許状の日付) ※神社名表記なし

宝暦2年(1752)頃 仁平正明(裁許状の日付) ※以降、石井大明神神主の記載

享和3年(1803)頃 仁平正全(裁許状の日付)

嘉永6年(1853)頃 仁平正隆(裁許状の日付)

慶應元年(1865)頃 仁平正齋(裁許状の日付)

明治6年(1873) 仁平正濟(県の辞令日)※上記正齋と同一人物

明治頃~     仁平正義

昭和12年(1937)仁平 進(宮司就任日)

昭和37年(1962)仁平正晴(宮司就任日)

平成29年(2017)水田和宏(宮司就任日)

※記録でわかっている分だけを列記しています。中抜けなどがあるかもしれません。

享保5年(1720)仁平正次

宝暦2年(1752)仁平正明

享和3年 仁平正全

(書き下しをしておきます)

常陸國茨城郡古町村「石井大明神」の神主「仁平飛騨守(ひだのかみ)藤原正全」風折烏帽子(かざおれえぼし)、狩衣(かりぎぬ)を着ること先例に任(まか)す。専ら(もっぱ)社職格式を守り、抽(ひ)いて精祈すべきもの也。

神道裁許状件(くだん)の如し。

  享和三年閏(うるう)正月二十六日

 神祇官領長上正三位侍従

卜部朝臣良連

嘉永6年(1853)仁平正隆

慶應元年(1865)仁平正齋


明治6年(1873)仁平正濟

明治に入り国(茨城県)から辞令をもらっています