御由緒


神代の昔、天つ神が豊葦原中国を平定する際に、この地方を支配していた天甕星(香々背男命)だけが従わず、討伐に派遣された武甕槌神・経津主神に対して、巨大な石となり抵抗しました。二神の命を受けた当社の御祭神である建葉槌命は、大甕(久慈郡)の山でその巨石を金の靴で蹴り飛ばし、天甕星を退治しました。巨石は割れて三方向に飛び、さらに残る石が三方向に飛び、石の一つが石井の井戸の底に落ちました。そして天甕星の祟りを恐れて、鎮魂のために建葉槌命をお祀りしたのが石井神社です。

尚、討伐地には大甕神社(日立市大甕町)が、三つに飛んだ石の場所には、石神社(東海村石神外宿)と風隼神社(城里町石塚)があります。

大甕神社 日立市大甕町

石神社 東海村石神外宿

風隼神社 城里町石塚

石井神社が鎮座する笠間については、奈良時代の初期、和銅6年(713)に編纂された常陸国風土記(新治)には、既に「笠間の村」についての記述があります。

神社北側一帯では、竪穴式住居跡が見つかっており、縄文土器や土師器、須恵器なども出土しています。類推すると古墳時代の後期には集落があったこととなりますので、石井神社の歴史も相当古いこととなります。おそらく風土記の「笠間」の記述は、石井周辺の集落ではないでしょうか。

この辺りの笠間盆地の中で、古くから人々が住んでいた里として、石井・市毛・大淵・福田・飯田・徳蔵・箱田・来栖・本戸・吉原・稲田・福原の12ヶ所があります。この土地との形が「すげ笠」に似ており、笠の骨組を山としてその合間に12の集落があるように見えることから「笠間」と名付けられたことが『笠間城記』に記述されています。

石井の周辺には、石井神社の他に大井神社・箱田神社・来栖神社がありその四つの神社を「四所神社」と呼んでいたことも当社の記録にあります。

石井神社の創建については不詳ですが、平安時代初期の大同二年(807)に社殿を再建しており、当社では「大同2年再建(創始不詳)」としております。

その後、社殿は4度火災に見舞われ焼失し、伝承された文献などは残念ながら残っていません。尚、現在の本殿は、江戸時代の天明の大火災で焼失した後に、天明8年(1788)に再建されました。そのことは拝殿に掲げられた大絵馬に「世話人 羽石・櫻井 天明8年」との銘が物語っています。

何度も火災に見舞われたことは残念なことでありますが、江戸の繁栄の陰で多くの火災が発生したように、石井の地が繁栄していたことがうかがわれます。

欅造りの大鳥居は明治34年(1901)建立の両部鳥居で、その扁額には「石井大明神」と書かれています。100年以上に亘り時代を見守ってきた鳥居でありますが、残念ながら東日本大震災の被災で倒壊のおそれがあり、支え木がしてあります。

その建替えに向けた「石井神社境内整備実行委員会」により数年検討を重ね、本年(平成29年)6月頃より建替え工事が進められます。また国道55号線沿いの境内空き地部分の整備のための玉垣の移動、中央参道の敷石の張替えなども併せて進めていきます。

これらには相当の予算が必要なため、氏子を中心に奉賛金をお願いしてゆくところです。


境内社

本殿東側には、二つの境内社があります。右側が青麻神社(病気平癒の神)、左側が秋葉神社(火防の神)と琴平神社(海の神)が相殿となっており、社殿内の右側には・樺山神社(茨城国造の祖)の神輿が社殿として祀られています。また本殿には鹿島神社・香取神社(武神)・稲荷神社(産業の神)が合祀されています。

これらは長い歴史の中で、石井の人々が様々な問題から町を守るため、神様のご神威をいただいてきたことがうかがえます。


御手洗

また神社より南方にしばらく進むと「御手洗」(石井南交差点よりさらに南下し、東側農道を進んだ右手)があり、鎮座の由来となった巨大な石が落ちた場所とされています。これは古くは御手洗の場所から長い参道が続いていたことも物語っています。落ちた巨石については伝えられておりませんが、古くはこの場所からふんだんな清水が湧き出ており、氏子の生活に供していました。

神社から南方に進んだ御手洗、馬場先とも呼ばれる

おそらく明治時代に書かれた書類が出てきましたので、書き留めておきます。

( )は注です。【※ 】は宮司が付けた補則です。できるだけ解読してますが、誤字があるかもしれません。読みやすいように空白や改行を入れています。


神社取調書

所在地名

茨城縣常陸國西茨城郡笠間町大字石井字宮廻

 村社 石井神社


祭神

 建葉槌命


事由

創立ノ年暦ハ詳ナラズ、大同二年再建ノ由ナリ   【※大同2年は807年】

勧請ノ来由ハ往古建葉槌命 鹿嶌香取二神ノ命ヲ受テ 天ノ甕星亦名香々背男ヲ討給シニ 大甕山ノ上ニ(久慈郡ナリ)大石ニ変ス

圍四丈高サ五丈 日夜ニ長ス 再ヒ建葉槌命ニ命シテ其石ヲ破裂セシム則チ三段トナル

各一所ニ散在ス 其残余ノ石亦三段トナル 其一段笠間ノ國中ノ井ノ底ニ落ツ

故ニ名付テ石井ト云フ

甕星ノ怨憤ヲ懼レテ鎮魂ノ爲メ建葉槌命ヲ祭祀セリト云フ

其石ノ沈ミシ井ハ 即チ今ノ御手洗ナリ(本社ヲ去ル三百五捨九間余南ノ方ニアリ)

一段ハ山本ノ郷ニアリ 今名付テ星山ト唱ス  【※旧市原村、現笠間市中市原の星宮神社】

又一段ハ圷村手粉裂明神ト祭ルト云(右ハ延享二年二宮茂直カ記セル石井神社本縁ト云フ書ニアル故ノ概略ナリ)

  【※旧東茨城郡圷村、現在東茨城郡城里町の東部にある手子后神社】

當所ノ鎮守ニシテ土人其神徳ヲ敬仰セサルハナシ

笠間四所ノ宮ト云伝ヘタリ

大井神社(大淵ノ鎮座) 箱田神社(箱田ノ鎮座) 来栖神社(来栖ノ鎮座)

以上ノ神社ヲ四所ト称セリ

然レトモ火災の爲メ旧記ヲ失シ 縁由ヲ詳ニスル事能ハス

明治六年四月村社ニ定メラレル

建物

 本社 間口六尺二寸 奥行五尺四寸 コバ葺

 上屋 間口三間 奥行四間

  寛政三 辛亥年造営ス

 拝殿 間口三間 奥行二間三尺 瓦葺

  寛政三 辛亥年造営ス

 鳥居 根開一丈四尺高一丈八尺 壱基

  寛保年中ノ建設ニテ槻ヲ以テ造ル 籰措ナリ

 御手洗場 間口五尺 杉皮葺

境内地

 境内百七十二坪 平地ニシテ人家ニ接続セリ

永続基本財産

 建物等維持上ニ関シ基本トシテ金五十圓ヲ 社掌仁平正義預リ置キ

其利子金七圓五十銭ト 境外一所有地ヨリ生スル地代金五圓ヲ合セテ 氏子総代之ヲ管理シ修繕等ノ費途ニ充ツル事セリ

宝物古文書

 巻物 一巻

 是ハ石井神社本縁ナリ 延享二 孟春同國同郡大戸村夷鍼社 大常令ニ宮参河守日奉茂直ノ書スル所相伝テ今ニ至ル    【※延享2年は1745年】

 境外一所有地

 宅地壱及三畝二捨一歩

物質ハ表紙浅黄調ニシテ表紙裏ハ金入間ニ合 巻物紙 生間ニ合軸末壇細絹打一間九寸五分長サ弐丈一尺壱寸裂作上

名不詳


※最後の「物資ハ・・・」あたりから解読が難しくてとりあえず書いてますが、意味が通ってないかもしれません。もっと調べて修正していきます。