石井神社の御祭神建葉槌命に関わるお話
当社を遠方より参拝される方の多くが興味を持っておられるので、少しずつですが、天甕星(香香背男)討伐の神話をまとめていきたいと思います
由緒・鎮座の歴史ページも合わせてご覧下さい
天甕星(香香背男)
関東を治めた一族か、東北まで治めた記述もある
また静岡辺りまで勢力があったが、常陸のあたりまで押し込まれたとする記述も
実際に富士宮市に倭文神社(祭神 健羽雷神)が鎮座しているのだが、関連はわからない。
石名坂で討伐される、久慈郡久慈村との記述もあり
静神社 常陸国二の宮 那珂市静2
鹿島香取の神とともに、出雲征伐の後、建葉槌命の一族が治めた場所か
大同元年(806)創始とも言われるが、創始不詳となっている、奈良時代の創始とのこと。
大甕神社 日立市大みか町6-16-1
石名坂と呼ばれる場所、天甕星の討伐地と言われる
宿魂石がある
神社については江戸時代の元禄8年(1695)に宿魂石の上に移転し、現在に至る
鎮座は紀元前660年と神社では伝えられているそうである
石神社(那珂郡東海村石神外宿1)
御祭神 天手力雄命
創始 不詳
星神香々背男を倒し、宿魂石裂け飛びその一つがこの地にとどまる、そして手力雄を祀る。手力雄は建葉槌の誤りなれど、今に改めず。
『倭文神健葉槌命縁記』では、1つ目の石が落ちたところ
御神体が巨石とのこと
手子后神社(村社) 東茨城郡城里町上圷199
『倭文神健葉槌命縁記』では、2つ目の石が落ちた場所と記述される
風隼神社(村社) 東茨城郡城里町石塚1088
御祭神 武甕槌命
大同元年勧請との伝えあり
石名坂の魔王石を天手力雄神が蹴り倒し、3つに折れた石、本は石名坂にとどまり、中は石上村に、末は石塚村に留まる。石色黒く、赤く、白い節あり、その石が今の御神体として祀るという。
『消された星信仰』(平成7年榎本出雲著)によると、2つ目の石が落ちた場所と記述があるが、出典の元は不明
天満神社(村社)日立市河原子町3-15-18
『栗田先生雑著』(栗田寛著)によると河原子村に2つ目の石が落ちている
河原子には神社はここだけなので記載したが、御祭神も違うので無関係だと思う
星宮神社(村社) 笠間市中市原522
御祭神 天之可可背男命
神護景雲(767-770)年間創始
『倭文神健葉槌命縁記』によると、天甕星の霊が小石になって隠れた所
手子后神社(村社) 水戸市田島町173(旧内原町)
明治6年鹿島神社に合祀も、後の明治12年分祀して現在に。
先述『消された星信仰』によると4つ目の石が落ちた場所。こちらも出典元不明
このように見ていくと、どの説も1つ目は東海村の石神社、3つ目は石井神社なのですが、いろいろと表記が分かれています
ちなみに星のつく神社は、茨城に10社程度、栃木が多くて130社くらいあるようです
これまで調べたことを考えていくと、石井神社の創始は760年から807年の間あたりなのか…。
静神社は不詳だが大同元年説があり、風隼神社も大同元年創建と伝えられる中で、石井神社の創始は大同元年か2年といったところでしょうか。大同2年再建と伝えがあるが、創建としても良いのかもしれない。