享保5年(1720)仁平正次
神道裁許状
江戸時代の寛文5年(1665)諸社禰宜神主法度が発布され、神職の資格(狩衣や烏帽子を着て良いという許可)を京都の吉田家(吉田神社)からいただくことになります。※ない場合は「白丁」(下級の官職用の白い着物)しか着れません。
吉田家の祖は、古代より祭祀を司る卜部氏で、幕府より「神祇管領長上」称号をいただき、全国の神社に神様の位を、神職に資格を与えていました。
最初の画像は、石井神社(石井大明神)の神主、仁平正次が享保5年(1720)に与えられた「神道裁許状」です。また以下に残存するものを載せています。
これ以前のものは、焼失してしまったと聞いていますが、定かではありません。しかしながら長い歴史の間、仁平家が神主を務めていたことがわかります。
江戸時代の笠間藩は、藩主がころころ変わっていましたが、笠間城主として延享4年(1747)に移ってきた日向延岡藩の牧野貞通から牧野家が幕末まで治めていました。
https://www.city.kasama.lg.jp/page/page000169.html
(参考 笠間市ホームページ ※延亭→延享 誤植あり)
近隣の八坂神社、(大渕)天神社、石井神社の3社の神主は仁平(二平)家で、この3家を牧野家が神主として連れてきたと言う話を聞きます。
しかし神主として裁許状をいただいているのが、その30年近く前になりますので年代がズレています。但し、この裁許状には神社名がありませんので、事実であれば移って以降は神社名が入ったと考えることができます。この点は確証がありません。
神道裁許状を公開しているところはあまりないので、個人情報ですがせっかくなので公開しています。※見たい方は社務所に展示してありますので、お問合せ下さい。
石井神社 歴代神主
享保5年(1720)頃 仁平正次(裁許状の日付) ※神社名表記なし
宝暦2年(1752)頃 仁平正明(裁許状の日付) ※以降、石井大明神神主の記載
享和3年(1803)頃 仁平正全(裁許状の日付)
嘉永6年(1853)頃 仁平正隆(裁許状の日付)
慶應元年(1865)頃 仁平正齋(裁許状の日付)
明治6年(1873) 仁平正濟(県の辞令日)※上記正齋と同一人物
明治頃~ 仁平正義
昭和12年(1937)仁平 進(宮司就任日)
昭和37年(1962)仁平正晴(宮司就任日)
平成29年(2017)水田和宏(宮司就任日)
※記録でわかっている分だけを列記しています。中抜けなどがあるかもしれません。
宝暦2年(1752)仁平正明
享和3年 仁平正全
(書き下しをしておきます)
常陸國茨城郡古町村「石井大明神」の神主「仁平飛騨守(ひだのかみ)藤原正全」風折烏帽子(かざおれえぼし)、狩衣(かりぎぬ)を着ること先例に任(まか)す。専ら(もっぱ)社職格式を守り、抽(ひ)いて精祈すべきもの也。
神道裁許状件(くだん)の如し。
享和三年閏(うるう)正月二十六日
神祇官領長上正三位侍従
卜部朝臣良連
嘉永6年(1853)仁平正隆
慶應元年(1865)仁平正齋
明治6年(1873)仁平正濟
明治に入り国(茨城県)から辞令をもらっています